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緒方春朔について

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天然痘は、今や完全に根絶され、文献の中だけしか見ることが出来ない病気となりましたが、天然痘に対する当時の人々の恐怖は、想像もつかないものであったでしょう。この天然痘予防のため、人痘種痘法を、我が国で初めて成功させたのは、秋月藩医緒方春朔であります。この春朔こそが、わが国の種痘の始祖です。

緒方春朔は、寛延元年(1748)久留米藩士小田村家に生まれ、医家緒方元斎の養子となります。医を志して長崎に遊学、吉雄耕牛に医学を学びます。中国清の勅纂による一大医学書「醫宗金鑑」(甘木歴史資料館に展示)の第60巻にある種痘に注目し、日夜研究に没頭しました。天明年間、父祖の地秋月に移り、住民の医療に尽くし、時の藩主黒田長舒に認められ藩医となります。寛政2年(1790)2月14日、上秋月村(福岡県甘木市)大庄屋天野甚左衛門の2児に、鼻旱苗法による種痘を成功させました。これはエドワード・ジェンナーの牛痘種痘法成功より6年早い時期です。

平成2年は、この種痘の成功より200年目にあたるため、緒方春朔の功績を称える顕彰事業が、甘木朝倉医師会、福岡県医師会ならびに県立甘木歴史資料館の主催によって、平成2年7月から8月にかけて開催されました。記念顕彰碑建立(甘木朝倉医師会病院前庭)、資料展開催、緒方春朔著「種痘必順辨」の現代語訳の記念誌発行、シンポジウム「種痘の始祖・緒方春朔先生に学ぶ」開催、ビデオ映画「種痘の始祖緒方春朔」の制作(甘木朝倉の全小、中学校に配布)などの記念顕彰事業が盛大に挙行されました。

緒方春朔は、種痘成功後、これを自分の秘伝とすることなく、この種痘を広め、子供たちを天然痘から守るために、また、種痘という概念を医師のみならず庶民にも理解させるため、寛成5年(1793)「種痘必順辨」を和文で著しました。さらに、寛成8年(1796)には、「種痘緊轄」ならびに「種痘證治録」を著しています。この「種痘必順辨」(秋月郷土館に展示)は、わが国の医学史上、初の種痘書とされています。これに目を通しますと、種痘研究の苦労、種痘成功の感動、種痘を広めるための悩みなど、ひしひしと私たちの胸を打つものがあります。書中には「余ガ試ル処ノ者、既ニ千数ニ及ブトモ、未ダ一児ヲ損セズ」と記されています。

春朔の名は、天下に知れ渡り、参勤交代の供をして江戸え上がれば、途中の宿にまで治療を願う者が訪れてきたといわれています。また各藩主は、この話を聞き、藩主を入門させて種痘法を学ばせました。春朔の門人は、門人帳に記載されている者だけで69名を数えますが、そのうちの約3分の1の21名は藩医であります。その出身地は、江戸、京都はじめ広く各地に及んでいます。

このように、春朔の種痘法は、全国で試みられ、後の牛痘法がわが国に伝来し、普及し始めるまでの約60年間、わが国の天然痘予防に大いに貢献することになります。そして、この春朔による人痘法の全国的広がり、すなわち一部とはいえ、国民や医師に種痘という概念の理解が得られていたことは、後の牛痘法が輸入されたとき、急速に全国に広がった原動力ないしはその基盤になったと考えられています。

文化7年(1810)1月21日、63才で没す。秋月の長生寺に眠る。